人生とは、幾重にも重なる調べの旅路だ。
その旅は時には美しい旋律を奏で、時には暗い音色を響かせる。
しかし、その旅路はもうすぐ終わりを告げようとしている気がする。
希死念慮という言葉は、私にとっては心に刺さる荊のようだ。
その荊は、静かに私の内側を突き刺し、痛みを感じさせて来る。
終わりの先にある安らぎと解放感が、私を誘惑し、その調べがますます耳を澄ませる。
人間はいつだって終焉を知ることができる。
しかし、その知識は時には苛烈なものであり、耐えがたいほどの苦悩をもたらす。
私の心は、その苦悩に満ちている。
人間は何のために生き、何のために歩み続けるのか。
そんな疑問が、私を追い詰める。
フロイトが指摘する「性的な欲求の減少が無意識のうちに死の欲動に転換される」という概念は、精神分析理論の中で重要な要素の一つだ。
人間は無意識の領域に抑圧された欲望やエネルギーを持っており、これらの欲求は適切に処理されないままに残されると、異なる形で表れることがある。
特に、性的な欲求やアタッチメントが満たされない場合、そのエネルギーは無意識のうちに蓄積され、死の欲動へと転換される危険性がある。
このような転換は、人間が死を求めることを意識的に望むのではなく、無意識のうちに生きることへの不安や苦痛から逃れるために行われるもの。
人間が無意識のうちに自己保存の本能から逃れるために死を求めるのなら、その希死念慮は死の欲動である。
そして、その背後に存在する心理的な不安や恐怖は、満たされない欲求やアタッチメント不足が要因となっているからだと考えられる。
人間は、性的な欲求が減少し、アタッチメントが不足していくと、生きることへの希望が無意識のうちに虚無へと転換されると、フロイトは主張している。
そして、人間はその過程を自覚せずに、うつ病の症状を経験することになる。
ガチのうつ病というのは、まさしく、それだ。
この世界は、美しい。
そして、この世界は、虚しい。
生きることは、素晴らしい。
そして、生きることは苦しい。
人生の美しさや生きる素晴らしさを感じ取る力が、枯渇していく。
幸福や喜びを感じ取る能力が、次第に失われていく。
私に残された人生の選択は、ただ、静かに終焉の調べを聴きながら、人生の幕を閉じることだけなのか。
誰かが私の心の叫び声を聞いてくれるだろうか。
誰かが私の苦悩を理解してくれるだろうか。
誰かが私の最期を見守ってくれるだろうか。
終焉の調べが、ますます近づいてくる。
そして、私の心は静かにその音色に酔いしれる。
きっと、これが、私の最後の旋律になるんだろう……。