通常、「死についてガチで想像したり、考える」ことは、たぶん人が日常生活を送る中で、ごく当たり前に回避されているんだろうね。
例えば、ドラマや映画等で登場人物が死んでしまう場面を見ても、そこで感情移入をして、涙を流すことはあっても、「死に対する生々しい想像や思考」が、その人の心にダイレクトに入り込むことは、きっと少ない…と思う。
人って、健康で普通に生きていたら、「死」を刹那的にしか考えることが出来ない…と思う。
つまり、それが心を守る為の防衛機制。
人は「死ぬ」ってことを意識に上げない、忘れることで、平穏に日常生活を進めて行く。
それが当たり前。
「死を意識しないで生活する」から、「精神の正常性が保たれる」と言っても良い。
人は、いつか死ぬ。
病気で、事故で、事件で…。
どのような形で死ぬか分からない。
でも、人はいつか絶対に死ぬ。
誰もが、死から逃れることはできない。
だから、「死の恐怖」に正面から立ち向かうマインドは、心を疲弊させてしまうリスクがある。
立ち向かって、もし負けてしまったら、「恐怖感や絶望感」に取り込まれてしまうリスクがある。
そのリスクを避けるために、防衛機制が発動して、「死について深く考えたり、真剣に想像する」ことをさせない。
ドラマや映画、または人間の死をテーマにしたドキュメント番組を見たとき、感情移入をして、涙を流したとしても、それは刹那的な代理体験で終わってしまい、「死について深く思考する」ことから遠ざけられて行く。
心にある防衛機制が、「死を考えたり、想像する」ことをさせないようにしている。
だから、殆どの人は日常生活の中で、「死」を意識しないで生きて行ける。
「死」を意識しないで生きることは、もしかすると、かりそめに生きることに過ぎないのかも知れない。
でも、それが幸せなんだよね。
それが心の平安なんだよね。
人間ってさ、生きていれば、いろんなことがある。
嫌なこと、辛いこと、いっぱいあるよね。
でもね、死の恐怖に直面することって、めったにないでしょ。
死の恐怖に直面しないから、死について深く考えたり、想像することがない。
だから、平穏な生活を送ることができる。
死の恐怖に直面して、死の恐怖と共に生きていると、心が崩れていく。
平穏な精神状態を保つことができない。
死ぬかも知れない病気を宣告されたときの、ネガティブで恐怖感にまみれた情緒的反応は、セルフコントロールができない。
一度心に巣くった絶望感や恐怖感は、決して消えることなく、はびこり続ける。
死の恐怖、抑うつ気分、焦燥感、不安感で精神がボロボロ。
そして、頭痛と貧血、息苦しさと胸の痛み、倦怠感、睡眠障害で身体もボロボロ。
だから、「死ぬこと」を考えてしまう。
「自分の死」が「苦しみからの解放」であることを、想像してしまう。
もう一度、生きる意味や喜びを見つけること自体が、不可能な気がするんだ。
自分の死について、リアルに想像しないで、毎日の生活を送れる人が羨ましい。
ごめんね。
自分が病気を宣告されたから、健康で生きている人に対して、妬みや嫉妬のような言葉が出てしまった。
でも、ほんと、「死」を意識しないで、健康で生きられている人が羨ましいんだ。
たまらなく、羨ましいよ…。
みなさんの気分を害してしまったかも知れない。
ネガティブなことばかり書いて、ごめんね。
でも、今日もブログを読んでくれて、ありがとう。
これからも、生きている間は、今自分が感じたこと、考えたことをブログに「ありのまま」書いていくので、そっと見守って頂けると嬉しいです。
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